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キスをする間際は、いつだってどきどきする。
いまはもう、その後からどんどん押し寄せる濃い刺激がそれを塗り替えていってしまうのだけれど。
それでもキスをする間際は、やっぱりどきどきする。
「翔くん、キスしよっか」
俺の部屋でゆっくりとDVD観賞をしていた晩、二人でソファーに身体を落ちつけて翔くんの髪なんかを指で梳いたりしながら、俺はなんとはなしにそう呟いた。
翔くんは俺の方を見て、なにか言いたげに口の端を緩ませた。
「わざわざ言ったらいけない?」
そう言ってみると、翔くんは照れくさそうにして少しだけ笑う。
「いけなくない」
甘ったるい返事が返ってきた。
俺は、ちょっとだけ面映ゆくなって、そんな風な表情で目を閉じる。
キスをする間際は、いつだってどきどきする。
「翔くん、覚えてる?最初にキスしたとき」
きみは覚えているだろうか。
いまよりずっとどきどきしていた、きみとした初めてのキスを。
あの日も、今日みたいに俺の部屋に二人でいたんだ。
翔くんはベッドに寝転がって漫画を読んでいて、暑そうにしょっちゅうシャツの裾をパタパタさせては腹を掻いていた。それに、扇風機の羽の回るのが妙に耳に残っているから、季節は夏だった。ていうか、本当は何月何日かも覚えていたりする。
俺は、ベッドを背もたれにゲームをしていて…。本当は先輩のコンサートのリハーサルに参加する予定があったのだけど、急に中止になったのだった。中止になった理由は、その時の俺たちになんて知らされることはなく、ただぽっかり空いた時間を喜んでいたはずだ。
いつもだったら間髪いれずに翔くんに話しかけたりする俺が、妙に気を使って黙っている。そんなんだから、俺は目の前のゲームに集中できるわけもなく、あっというまにゲームオーバーだ。
「へったくそ」
漫画を読んでいたはずなのに、翔くんはからからと笑いながら後ろからそう言った。
「なんだよ、じゃあ、翔くんやってみてよ」
ベッドをぱふんと叩いて俺が口を尖らせると、
「やーだね」
なんて意地悪そうに言い返された。
そして翔くんは、つんと尖った唇をこれまた尖らせて漫画へ目を移したのだった。
やっぱり、機嫌、直ってないよなぁ、と俺は思う。
リハーサルが急きょ中止になり、スタジオで解散を言い渡された俺たちは、買い物をして映画を見に行くことで意見が一致した。
ところが、上映時間の確認がてら寄った映画館で翔くんが手洗いに行っている間だった。俺も入ってれば良かったのに、というのは後で思いつく、後悔って奴なんだけれど、一人でぼんやりしているうちに、俺はファンに囲まれてしまったのだ。本当にファンだったのかなんなのか分からないけれど、中学生だか高校生だかの女の子がきゃあきゃあ何かを言っているのだ。そうだ、夏休みだった。しかも夏休みの渋谷だった。中にはそりゃ、ちょっとはかわいいなと思う子もいたけれど、俺は面倒臭いばっかりで最初は握手をしていた手を終いには引っ込めてしまった。
どうしよう。走って逃げちゃおうか。でも、翔くんがまだトイレにいるし、なんて思っていたとき、どん、と強く背中を押された。かと思うとすぐに強く腕を掴まれ、俺はそのままその場を走り出すことになった。
「なにやってんだよ!」
翔くんは俺の腕を掴んで走りながら怒鳴った。
「ごめん!けど俺なんもやってねえよ!」
映画館の入っているビルから出るまで走り続けて、外の蒸し暑さにむっとして初めて後ろを振り返ったが、もう誰も俺たちを追う人はいなかった。そりゃそうだ。デビューもしてないっていうのに、逃げる俺たちを必死に追いかけて来る子なんてそうそういるはずないだろう。
「そしたらさ、先に服見にいこっか」
そう言って、走ったらますますあちーね、とぱたぱた服の裾を仰ぎながら翔くんに向かって笑いかけた俺を、あろうことか翔くんはぎゅっと睨みつけた。
「いかねえ。疲れた」
なんで俺が睨まれるんだ。俺は驚いたし、少し苛立ちもした。
「でも、もう大丈夫だろ、誰も…」
「一人で行けよ。俺帰るから」
俺を置いて一人で駅に向かい始めた翔くんの背中を少し見つめ、俺は仕方なくその後を追った。
買い物も映画も、一人でなんてちっとも行きたくはなくって。
翔くんのシャツの背中は、汗で丸く色が変わって張り付いていた。
「俺帰るから」と言った翔くんは、なぜだか今、そのまま俺の家に来ていて、こうしてごろごろしては暑い暑いとムカつき、やっぱり機嫌も直っていない。
いつものように翔くんに話しかけられないのは、機嫌の悪い理由が俺には分からないからだった。
「あのなかにタイプいた?」
「えっ?」
突然話しかけられて俺は少しばかり慌てふためいた。
「あのなかって、どのなか?」
「さっきの、きゃあきゃあ言ってた女の中」
「…顔とか覚えてないよ」
「ふーん…」
「第一さ、ああいう子とつきあうとかって俺の中では絶対…」
「お前、キスしたことない、つってたよな」
俺の言葉を遮って、翔くんは全く脈絡のないことを言いだした。
「え?あ、あるよ」
「こないだ、ないって言ってただろ」
覚えてる。俺だってそう言ったのはよく覚えている。今のはつい、なんか、からかわれてるみたいな気がして思わず見栄を張っただけだ。
「いいじゃん!どっちでも!」
そうやって俺が子供っぽく言い返せば、翔くんも何か言い返してくれるか、そうじゃなければ笑ってくれるもんだと思っていた。
なのに。
「まあ、どっちでもいいよなぁ」
そう翔くんは、低く呟いて俺に背を向けた。
「翔くん…」
返事はなかった。なんだか不安にもなる。俺はずるりと這い上がるようにベッドに乗り上げると翔くんの肩を揺すった。
「ねぇ、翔くんって」
なんで怒ってんの、と言いかけようと口を開いたら、翔くんは俺の手首を掴みながら身体を反転させた。
「キス、してみようか」
翔くんがそのときどんな顔をしていたか、俺は覚えていない。
一瞬にして、頭は真っ白になり、顔が熱くなった。それだけは覚えている。
俺はなんにも言葉がでてこなくて、ただ、なんというか、とにかくびっくりして、真っ白の頭の中では突然小人の大運動会が始まったのだ。一斉に、綱引きやら玉入れやら、徒競争なんかが、それはもう賑やかに繰り広げられた。
「くくっ」
翔くんの声で我に返ると、彼は笑っていた。いつもより、少し嫌な感じのするそれに、思わず俺は眉を顰めると、
「練習だよ。したことないんだろ」
「そ、そういうの、練習とか、いらない、と、おもう…」
ふざけているみたいなのに、翔くんの掴む手首はずっと痛い。
「親切で言ってやったのに」
「うそ!ぜったい俺のことからかってるだけだろ!」
「じゃあ、練習じゃなかったら、いいの?」
「え…?」
思いもしなかった言葉に、俺は返し文句が見つからず、部屋には沈黙が流れた。耳に入るのは、扇風機の羽の回るのと、翔くんに気を使ってボリュームを下げていたゲームの音で。翔くんから見つめられると、ますますどうしていいかわからない。困っているうちに、また翔くんは笑いだした。
「おまえ、いじるとマジおもしれえな。なに真剣に悩んでんだよ」
「あ…」
それを潮に手首は自由にされた。
「せいぜい失敗するんだな、ファーストキッス」
どうしてだろう。手首の痛かったのが名残惜しいなんて、おかしい。俺はすぐには動けなかった。
「潤?」
動かない俺に、翔くんは声をかけると上体を起こした。
「ショック受けてんの?」
小さく頭を振ると、彼はまた尋ねた。
「心配してんの?」
今度はなにも答えなかったが、それはその言葉を肯定しているからではなかった。
「ごめん、ごめん、ふざけただけだって。んなもん、そうそう失敗なんかしねえから」
それでも俺は黙っていた。俺は、翔くんの不機嫌の捌け口にからかわれたことに落ち込んでいるわけでも、初めてのキスがうまくいかないかもしれないことを心配しているわけでもないと思う。
翔くんの手をそっと取り、俺の手首に触れさせた。彼は怪訝な顔をして骨ばったそこに指を折っていった。
「あ、痛かった?」
僅かに首を縦に振ると、翔くんは、ごめんな、とまた謝る。
俺を強く縛りつけるような痛みが名残惜しく思う気持ちを、どんな単語に収めればいいのか分からなかった。
握られる手首に落としていた視線をゆっくり翔くんの顔へ移すと、目と目が合って、その距離はいつもよりずいぶん近い気がした。
「…翔くん、じょうずなの?」
「どうかな」
掴んでいる翔くんの手が、熱くなった気がした。
少しだけ翔くんの顔が傾きながら、近づく。
唇の触れる間際、俺は教えられたわけでもないのに目を閉じた。
どきどきしてしかたなくって、もう勝手にそうなった。
「もういっかい」
「うん…」
手首を縛る痛みが、甘い疼きに変わっても、俺は、それをどんな単語で片付けてあげればいいのか分からないままでいた。
「翔くん、覚えてる?最初にキスしたとき」
そう尋ねると、翔くんは俺の顔を両手で包み、あやすように親指で頬を撫でた。
「覚えてない」
想像通りの答えに俺は小さく笑みを浮かべた。だって、あのとき、翔くんはきっともう俺のことが好きだった。
初めてしたキスは、練習でもなんでもなかった。けれども、俺たちは、まだまだ青くて、幼くて。
「あ、キスしようとか言いだしたの、今さっきキスシーンがあったからだろ」
翔くんははぐらかすようにテレビ画面を指差しながら言う。あたりまえじゃないか。
「あの人たちもキスの練習したかな」
俺の呟きに、翔くんは気まずそうな顔をしてこてんとソファーに身体を倒した。